イエスは宗教改革者1

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本来、新約聖書についても考察すべきなのであるが、新約聖書については

キリスト教黎明期の段階で諸派あり、互いにギリシャ語翻訳を巡って争っていた

ようであり、現代でも解釈を巡って争いが絶えないようなので個別に考察しない。

つまり、そのように個人の裁量でいかようにも読めてしまうものについてあれこれ

書いても、哲学の深淵(泥沼)に引きずり込まれ、非常に不快な思いをしそうなのだ。

牧師さんのサイトをあれこれ巡ったが、とても魂が救われるとは思えなかった。

 

エスの教えは旧約聖書の枠組みにありながらもその解釈を反転させていると思う。

例えば、哀歌の

哀歌(口語訳) - Wikisource

第34章

30 おのれを撃つ者にほおを向け、満ち足りるまでに、はずかしめを受けよ。

31 主はとこしえにこのような人を捨てられないからである。

これは懲らしめられたとき、その懲らしめを存分に思い知り反省する者を神は見捨てられないという事だが、その関係性は「懲らしめる者懲らしめられる者」というベクトルだった。懲らしめる者が正義であり立場が上だった。それをイエスは右の頬を打たれたら左も差し出せと「懲らしめる者懲らしめられる者(寛大な心で暴力を許し平和に解決する)」というように懲らしめられる者の立場を高めた。つまりベクトルの向きをひっくり返した。

ただでさえ苦しむ者をさらに鞭打つ事に何の正義があるのか、これは旧約を引用しながらも解釈を反転させた例だと思う。

 

また、姦淫を行った女を石打ちの刑から救ったが、これも一見、旧約に反する事だった。しかし、イエスの前に引きずり出されたのは女だけであり、姦淫の相手がいなかった。

「お前たちの中で罪を犯さなかった者が石を投げよ」と「あなたは許された」という言葉は、男たちが申命記22章を悪用し、自らの責任を果たしていない矛盾を指摘している。

この時救われた女は後に信者となるいずれかのマリアだと思うが、そうであればマリアは未婚だった。つまり申命記によれば、マリアと寝た男はマリアと結婚しなければならない。そうでなければ男が罰せられる。イエスが、マリアが未婚であるか見抜けるか試そうとしたのだろう。しかし、姦淫の現場を押さえたはずなのに男がいない。

だからイエスは男たちにその矛盾を指摘し、反撃したのだ。これを理解しないとイエスが寛大だからで終わってしまう。申命記22章は、妻が処女でない事を黙って婚姻し、夫がそれを「許さない場合」に死刑と言っているのであり、未婚の女が男によって身を汚した場合、男が罰を受けるか責任を取らなければならない。

婚姻している女への規定を未婚の女性に当て嵌めるような間違いはよく行われる。

申命記を男たちが都合の良いように解釈していたものを、イエスは、そうではない、本来は女を守るためのものだったと返したのである。まさに 男が買春一方的に女を蔑み罰する から男が買春女は代償を請求する権利を持つ と責任の所在をひっくり返したのである。

しかし、世の牧師がその事に言及しているだろうか。相変わらずイエスが寛大だからと

男目線に終始している。これではイエスの寛大さと聡明さを永遠に理解できないだろう。そしてあなたは「許された」と、律法に違反したら、それが殺人でなくとも何かと死刑にする旧約も許しによって罪に問われない事がある事を示し、旧約の残酷さを愛に変えた。

エスは、「神がくびきによって結び合わされたものを人がくびきを解いてはならない」と夫が新しい妻を娶ろうとして妻を離縁するような、現代でも行われているが

当時は一方的に女側だけが不利になるような離婚を批判した。この言葉にイエス申命記の規定を越えて男女関係なく平等である事を説いていた事が分かる。

 

神々と人間のエジプト神話について

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本書は、旧約聖書がエジプトの物語から作られた事を思い知らしめる書である。

死んで3日3晩悲しむ話、ナイル川に隠された鉄や象牙、金や銀、青銅や黒檀

杉の木で作られた魔法の箱に納められた魔法の書、その魔法の書によって神の知恵に

匹敵する知恵と能力を得た人間は死を与えられる話などモーセを思わせる。

 

それとは少々ずれる話であるが、何とも興味深いのは古代エジプト人がゲーム磐で遊んでいた事である。

 

「セトナ・カエアムス一世ととトト神の魔法の書」より

 

セネトという人生ゲームのような、来世が幸運になるかどうか、2人のプレーヤーが駒を投げて碁盤の目を進めるゲームがある。

 

 魔術を勉強していたセトナ王子はネネフェルカプタハの墓にある「魔法の書」を盗むために墓盗人をする。すると、棺から起き上がったネネフェルカプタハが「魔法の書」を巡ってデュエルを持ちかけるのである。

 

ネネフェルカプタハが呪文でセネトの頭を碁盤で殴り、ネネフェルカプタハがセネトに三回戦で三連勝し、セネトは初めは足、次に腰、そして耳まで地面に埋まる。その時、セネトは乳兄弟のアンヘルルウにこの事をファラオの御前に報告し、プタハ神の護符とトト神の魔法の書を持ってくるよう叫ぶ。

アンヘルルウは急ぎファラオの元から護符とトト神の魔法の書(「魔法の書」とは別物)持ってくるとセネトの身体の上に護符を置いた。するとセネトは腕を伸ばし、トト神の魔法の書を掴むと墓の中から這い上がりピッカーンと光って地上に復活したのである。この後、セネトは墓を後にする。話は続き、次々セネトは問題にぶち当たり、そのたびファラオの知恵によって救われる。最後の顛末は、これらの出来事は、実は全てネネフェルカプタハによる幻影だった、幻影を見させたのは、争っていた「魔法の書」は恐ろしい不幸をもたらし、それによって自分は妻と子を失い、自らも死んでしまったので、自分の二の舞になってはいけないとセトナに諭すためだったというオチである。

 セトナは「魔法の書」をネネフェルカプタハの墓地に戻すのだった。

 

モーセの十の災いの魔術バトルの元ネタだと思うが、これは遊戯王の方が元ネタの良さを生かしている点で評価できる。

 

さすがにデュエルの部分はぶっ飛んでいる内容なのでヘブライ人もエジプト十の災いのエピソードとしたのだろう。いかにもヘブライ人の方は真面目でユーモアに乏しい感がある。それにしても遊戯王は良く調べている。

artne.jp

gigazine.net

血を好む宗教

旧約聖書は血生臭い。常に犠牲の血、人間の血の臭いが漂ってくるような雰囲気を醸し出している。犠牲の血の教義に関しては後付け理由ではないかと思う。

何と言っても中東にもライオンはいたのだが絶滅させているのである。あのダビデ

ライオンを殺していたのだ(素手で)。ただし誇張表現だと思われるが。

サムエル記上(口語訳) - Wikisource

第17章

34 しかしダビデはサウルに言った、「しもべは父の羊を飼っていたのですが、しし、あるいはくまがきて、群れの小羊を取った時、

35 わたしはそのあとを追って、これを撃ち、小羊をその口から救いだしました。その獣がわたしにとびかかってきた時は、ひげをつかまえて、それを撃ち殺しました。

36 しもべはすでに、ししと、くまを殺しました。この割礼なきペリシテびとも、生ける神の軍をいどんだのですから、あの獣の一頭のようになるでしょう」。

 

中東で愛されていた神は血を非常に好む。

ja.wikipedia.org

この感覚は文明化された現代では理解が難しい。戦闘的で残酷なのは遺伝的なものだろうか。温和な性格だと生き残れず、淘汰されてしまうだろう。

旧約聖書は、シュメール地方の信仰にエジプトの一神教が習合したなら、旧約聖書の神が異様に血を好む理由がわかる。

彼らの神がこれほどまでに苛烈なのは、彼らの生活環境が理由だろう。娯楽もなく、暑く、水も無い。家畜を屠って食べるくらいしか楽しみが無かっただろう。

仮に彼らの住環境が平和で様々な果樹が自生しており、穀物も家畜も豊かで、何か打ち込める娯楽が豊富にあったなら、ここまで残虐では無かったと思われる。

日本では江戸時代に、江戸では様々な娯楽があり、人々は戦国時代のような血で血を洗うような生活を捨てた部分もあったのではないだろうか。

そう考えると旧約聖書の生臭さに、いくら神学的教義があったとしても後付けに過ぎないと思える。

ローマ帝国は残酷な事で有名だが、気分が悪くなるような処刑法がある。罪人を生きたまま逆さ吊りにして肛門から縦に鋸で裂くのだ。この異常性を理解すれば、アブラハムが生贄を縦に裂いて神と契約を結んだ感覚も理解できる。

 

新約聖書の復活の概念について考察

ja.wikipedia.org

エジプト神話では、死後、心臓が審判に掛けられて、合格した者が難関である幾つかの門を通りアアルと呼ばれる楽園に入り、復活する。最初の死が地上における死であり、第二の死が心臓が天秤にかけられ、失格になると化け物に食べられ楽園に行くことも復活もない死である。

この考えは、夜になると冥界に行き、朝になると再び地上に戻って来ると考えられていた太陽の運行によるものである。

地上への復活という聖書の教義において、過去に死んだ者も裁きのために全員復活すると、一時的に地球がパンクするという人もいる。しかし、エジプト神話のように、復活へのルートには条件があり、最初の審判をクリア出来る者が少ないならばその心配も無用だろう。

新約聖書に基づく死の概念で、信者の間に混乱が見られるが、聖書がエジプト神話からヒントを得て書かれたと考えれば、第一の死と第二の死の意味もスムーズに分かるだろう。

 

 

新約聖書では悪しき者への刑罰として、第二の死を簡単に終わらせず、燃える炉に投げ込まれ永遠に終わらない苦しみを与えるとなっている。

なぜこんな苛烈な教えになったのだろう。

それは、カナン地方にあった恐ろしいモレク神信仰にあるのかもしれない。

モレク神への捧げものとして乳幼児が生きたまま炉にくべられた。熱くて泣き叫ぶ幼子の声を消すために、儀式の最中は楽器を騒々しく鳴らし、その騒音で声をかき消していたらしい。このような非道な行いをする者をあっさりと死なせて良いだろうか。

野蛮な邪教に対する憎悪と復讐のために聖書の第二の死は苛烈なのかもしれない。

エスの教えの画期的なところは「私の王国は小さき者のためにある」というところだ。昔は死んでも仕方ないものとして見捨てられていた幼子(赤ん坊も含む)こそ天の王国の住人として歓んで迎えられるという教えはまさに驚くべきものだった。

古代エジプトの物語

「雄弁な農夫の物語」「難破した水夫の物語」「シヌヘの物語」

など、記録にしっかり残っている文学作品がある事は素晴らしい。

これが紀元前2000頃に書かれたのだから驚異である。

 

wikipedia「雄弁な農夫の物語」より引用

ところどころ訳がおかしいところは自分で考えて修正しています。ご了承ください。

貧しい農民、クン・アナップが交易のため、オアシスの商品をたくさん積んだロバと一緒に市場に出かける。高官レンシの家臣であるネムティナクトは、農民が自分の土地に近づいていることに気づき、クン・アナップのロバと物資を盗む計画を考案した。

ネムティナクトは、片側が川に隣接し、反対側がネムティナクトの私有地である狭い公道に布を置くことによって、罠にかける。彼が布を小道に置くと、農民は布を踏みにじるか、水に足を踏み入れるか、ロバをネムティナクトの畑に連れて行かなければ通れない。

クン・アナップが仕方なくネムティナクトの麦畑を越えて行こうとしたとき、クン・アナップのロバのうち1頭が大麦を一口食べ、ネムティナクトは罰としてクン・アナップのロバと商品を取り上げてしまう。

クン・アナップはこの罰が不公平であると不平を言ったが、ネムティナクトは聞き入れなかった。クン・アナップは正義を求めて叫び、ネムティナクトは農民が抗議すると、お前は死ぬ事になると農民を脅した。

クン・アナップはこの不正を受け入れず、10日間ネムティナクトに訴え続けた。クン・アナップはネムティナクトから誠意を受け取る事ができず、レンシという高官を探し出し、彼の事件を提示する。

レンシは農民の事件を行政官に持ち込み、行政官はその事件を単に土地所有者と対立する農民の問題であるとして却下するが、レンシはこの情報を農民に伝えない。

レンシは、ファラオ、ネブカウレ(ネブカウレケティと信じられている)の前に不当な農民の話を持ち込み、農民がどれほど雄弁に話すかを彼に伝える。とても雄弁に話す農民の報告にファラオは興味をそそられて、クン・アナップが話すスピーチを続けさせるよう、書記官がファラオのためにクン・アナップの話を書き留められることができるように、しかし農民の嘆願に応答しないようにレンシに指示する。

ファラオは、クン・アナップが訴え続けている間、レンシに農民と彼の家族を養うように命じ、さらに農民に彼が食物を提供していることを知らせないようにレンシに指示した。

クン・アナップは9日間、レンシに正義の裁きを懇願し続けた。 9日間のスピーチの後、クン・アナップはレンシが訴えを全く聞き入れるつもりがない事を察知し、自殺を決意した。クン・アナップはレンシを侮辱し、殴打で罰せられた。最後のスピーチの後、落胆したクン・アナップは去ったが、レンシは彼を呼びに行き、彼に戻るように命じた。レンシはクン・アナップの最後の演説を読んだ後、感銘を受け、ロバと商品をクン・アナップと農民に返還するよう命じ、クン・アナップのすべての財産を補償するよう命じた。

巧みな弁舌で理不尽に立ち向かうオアシスの農夫『雄弁な農夫の物語』 | とうきょう砂漠のアレクサンドリア

こちらのサイトが分かりやすい。

読んで思ったのだが、旧約聖書の「ヨブ記」に似ている。ヨブを理不尽な目に遭わせて

おきながら説教する神は人々を困惑させてきた。それどころかカルトは無条件で神(カルト集団)の奴隷となるよう、例えどんな目に遭ってもヨブのような専心を示せとヨブ記を利用してきた。

しかし、元ネタがまさかのエジプトの古い物語だと分かったらどう反応するだろうか。

旧約聖書を読むときにエジプト神話やエジプトの古い物語を知っておくと、疑問が解消されるだろう。

 

騙される事の罪

伊丹万作の言葉が重い。その通りである。これは戦時での話ではないが

あるカルト集団の元信者による掲示板においての話だ。その掲示板は

脱退者、もしくは脱退を考えている者のための掲示板であったはずだった。

しかし、今や個人情報無断掲載、誹謗中傷、著作権法違反疑惑の巣窟になって

しまった。「精神異常者、ハゲ、死んでも構わない、心に痛みは感じない

生活保護の癖に、嫌がらせ電話をしただろう、住所と名前を晒しましょうか

醜い顔のくせに、腐った根性、ババア」等という罵詈雑言が飛び交い個人情報

無断掲載、著作権法違反疑惑など、本来なら通報されても止む無しである掲示

であるのに管理人が管理を怠っている。カルト宗教脱退者による脱退者の

相互援助のために立ち上げられた掲示板だったはずだ。

しかし、今や脱退の意思の無いカルト信者の連絡掲示板となり、カルト宗教

から脱退した者が、匿名の者から執拗なネットリンチに遭うようになって

しまった。数少ない良心的な書き込みも見られるのに残念な話だ。

便所の書き込みだから何を書いてもいいという者もいた。ネットリテラシー

まるで理解していない。こういう人間が私はあの宗教に騙されていたと主張しても

説得力が無い。そういう主張する者が、何の落ち度も無かった人をいかがわしい宗教に勧誘しておきながら、自分は被害者だと言い、同じく脱退した者に威張り散らし嫌がらせをする。無抵抗と見るや否や執拗で幼稚なからかい、無意味な罵倒を浴びせる。

これではカルト宗教の思う壺だ。「ほらごらん、脱退した人間は所詮サタンの手下だ

あそこまで品性下劣になりたくないよね」と言われても仕方のない口実を与えている。

 

騙された段階で騙された者に罪があるというよりも、騙されてそれだけで済ませず

他者を巻き込んだ罪がある。十分な思考をしなかったために表面の美辞麗句に

簡単に騙された事を自己反省して欲しい。

そして、カルトに子どもを巻き込んでしまって後悔している者は、自己憐憫に浸る暇があったら内省し、自分を憐れむな。その憐みは本来子どもに与えられるべきものだ。

内省もせず子どもが苦しんでいるさまを見て自己憐憫に浸るとしたら、それはおぞましい代理ミュンヒハウゼンだ。

苦しんでいる子どもを見て喜びを得ているに過ぎない。

宗教とは

古代エジプトにおける創造神について

ーメンフィスとヘリオポリスにおけるー 山崎 亨 著』

 

というpfdによれば、旧約聖書はエジプト神話からインスパイアされたようである。

しかしこのような研究があってもなお、頑なに他の神話を聖書に取り入れた事を

否定する信者が多い。

私は、旧約聖書の驚くべき点は、聖書原理主義者が主張するようなものではなく

もっと違ったところにあると考える。シュメールやエジプトの神話を取り入れながらも

新しい宗教を産み出そうとしている、その情熱に良さがある。

ユダヤ教以外では人身御供が行われ、王が神として振る舞っていた。アブラハムは父祖の信仰に別れを告げ、もはや子を焼いて捧げたり、王が神として振る舞わないような信仰に辿り着いた。その教えは、申命記に記されているように、王も律法に従うという新しい形であり、全ての者の上に神の法があった。しかし革命的宗教もバビロン捕囚までは浸透しなかった。そしてバビロン捕囚後は、ユダヤ教としてユダヤ人に浸透した。

ところがこれも新しい考え方であったものが旧態然とした支配層によって古いものに成り果てた。やがてキリスト教という革命的な教えが再び広まったが、これも支配層によって教えが捻じ曲げられ、魔女狩り、女性蔑視等が正当化され悲劇を生み続け、古いものになりつつある。

宗教とは、基本の部分である神への愛、隣人への愛を芯にして、同じところを変化なく巡るように見えても螺旋階段のように上を目指して行けば良いものではないだろうか。少しずつ人間の意識が向上し、より高次元の考え方を身に着けられれば良いと思うのである。